痛いよ

暴力は新しい暴力を生む。

憎しみの応酬の中では善悪の理屈や正解不正解の二元論は無意味だ。

報復による報復による報復によると、正義の名のもとに繰り返される争い。

 

誰かを傷付ける行為は間違っていることは子どもでもわかる。

自分がされて嫌なことは人にもするべきではないからだ。

だが、もしも自分の家族が傷付けられた時でもそんなことは言えるだろうか。

相手にとって僕の家族を傷付ける正当な理屈があったとしても、「暴力の連鎖を生むだけだから、僕の大切な人が傷付けられたけど黙っているよ」なんて達観したことは僕は言えない。

もちろん報復するだろう。

もしも娘がレイプされたら、僕はその犯人に対して思いつく限りの暴力を与えるだろう。

それが道徳的にも間違っていることはわかっていても、おそらくはそれが僕の正義だ。

 

パリでテロが起きた。

なぜパリが襲われたのか、どういう思想の人間がいかなる理由でパリの街を襲ったのか。

そういう理由を知ることも大切かもしれない。

ただ最も怒るべきことは、報復には直接的に関係のない無抵抗の市民を殺したことだ。

報復であるのであれば、狙うは手ぶらの市民ではなく、フランスの軍隊や政治家なのではないだろうか。

もちろんそれが正しいことは絶対に言えないけれど。

日本において国会前でデモしている人達が何万人もいるように、フランスの市民の中にも、フランス政府のやり方、軍事行為に反対している人達もたくさんいたはずだ。

テロが卑劣で愚かで想像力と考察の足りない行為なのは、そういう関係のない人を殺すからだ。

「卑怯」以外の言葉が出てこない。

 

人間は感情の生き物なので、戦いと暴力を繰り返す。

そしてそれを止める方法はどんな頭の良い人でも答えが今なお出ていない。

それぞれ互いの正義を主張し合っているうちは、報復の応酬は終わらないだろう。

先に書いたように僕も僕の家族が攻撃されたら問答無用にやり返す側の人間だから、争いそのものが間違っているとは正直言えない。

だけど、関係のない一般市民を殺すテロが正義だとは思えない。

 

僕は知識人でも有識者でもないので、戦争とテロの正体は今もわからない。

こうやって書けるのも蚊帳の外の人間だという意識があるからかもしれない。

ただ、何者かに大切な人が後ろから訳もわからず撃たれたらと想像した時、その痛みはわかる。

無力な僕らができることは、暴力と痛みの連鎖のきっかけを生み出さないことだろう。

他人に対してできる限り親切にし、怒れる人の話を聞く。

綺麗事かもしれないが、そうした半径数メートルの世界を良くしようと努めることが、弔いとなるような気がする。

14歳の頃にパリで3時間迷子になりパニックになって、「あぁこのまま孤児としてここで暮らすのか」と頭を抱えて怯えていた時、フランス人の青年がホテルまでの行き方をメモにして教えたくれたことがある。

 

今回のテロで亡くなったすべての人のご冥福を願う。

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ハヤブサマガジン 2005年10月活動開始。 フリーマガジン「ハヤブサマガジン」を日本全国のフットサルコート、スポーツバーなどに配布。 vol.7をもって活動停止。2013年、ウェブマガジンとして活動再開。ブログは日常の話です。