あいかわらずなボクら

好きなバンドが解散するのは、クラス替えのようなかすかな喪失感がある。

痛みと言うには少し大袈裟な気持ちだ。

 

何度も書いたし、何度も思い返してしまうけど、2011年のクリスマスイブ。

僕は仲間と宮城県の牡鹿半島の端にある公民館にいた。

暖房も壊れているので、ヒートテックの上にパーカーを着て、その上にアウターを2枚くらい着てパーティーをした。

あの時、あの瞬間、職業も肩書も生まれも育ちも全部取っ払って、人と人が今を生きていることに乾杯し、歌い、言葉にできないいくつかの気持ちを分かち合った。

たくさんの人が亡くなった場所で不謹慎なほど盛り上がったけれど、僕はその様はむしろ正しいと思った。

説明しがたいけどクリスマスはこれでいいと思った。

外には雪が降っていて、タバコを吸っていた可愛い女の子と少し話した。

眼鏡が似合うとても可愛いコだった。

僕が「おやすみなさい」と言うと、その子は「メリークリスマス」と言ってくれて、僕は妙に気恥ずかしくなって「ウヘヘ、・・・どうも」と情けない顔して室内に逃げたことを覚えている。

 

浅野いにお作、漫画「おやすみプンプン」でこんなセリフがある。

『たとえ何もわからなかったとしても、わかろうとして前に進んでいる限り、かろうじて自分は自分でいられるんだ。この退屈な日常も、くだらない景色も、作り変えられるのは、自分だけなんだ。だからプンプン……君が君でいる限り……この世界は、君のものだ』
ほんと、ハッとしちゃって。

仕事でもたくさん失敗して、コケて。

新しいことや挑戦しない方がどう考えたって楽なのに。

素直に老後の生活だけの為に働いた方が皮肉じゃなしに絶対正しい。

疑問に思わずに当たり前を受け入れたら余計なことを考えずに、きちんと人生を進ませることができるのに。

友達と遊ぶのだって、この歳になったら集めるのもたまに大変で、自分が誘われるのを待っていれば楽なのに。

けど僕は新しいことを自分の手で作りたいし、友達とだって死ぬまで遊びたい。

もう病的な衝動がそこにある。

それはなぜかと突き詰めて考えたら、「おやすみプンプン」のあのセリフに集約されていた。

自分でいるということは、おそらく楽しいかとか笑えているとか、そんな簡単なことだ。
これは中2の発想じゃない。

自分なりの理屈がある高2の考え方だ。

seventeen!

初期衝動や大きな疑問、好きや嫌いが胸の中をドーンと支配している。

悪あがきもなんだか様になってきた気がする。

デタラメなステップが軽やかなダンスになる日を待っている。

 

2015年はひたすら研究と勉強に没頭することができた。

来年の春前に新しいアプリを出す為に1年を費やした。

環ROYの歌詞のように「書いては消し、繰り返してる」だった。

「君が話していることは仮説だよね」に対して「どれだけデータを集めたとしても、未来の話は全て仮説ですよ。肝心なのはその仮説が検証可能か、あるいは実証できる可能性がどれだけあるかについて話し合うのが重要なのではないでしょうか」なんてどうでもいい屁理屈の問答を5時間繰り返して、その結果「開発資金は出せない」というアンサーなんてことはしょっちゅうだった。

「冷静ぶっているだけで誰かの言葉を利用して悲観こそがリアルだと妄信している思考停止ボケ死ね」と思いながらLimp Bizkitの『My Generation』を爆音で聴いて帰った。

けど、友達みんなも苦汁をなめる日々の中で戦っていると思うと、そんなことは余裕だ。
ダサさや理解されない言動も続けていればスタイルになる。

僕は物事がうまくいかないことへの耐性に関してはロシア軍の戦車並みだ。

ロシア軍の戦車に関してよく知らないけど。

5年後、10年後の日本がどうなっているかという未来予想図が合致する人と出会うのは至難だ。

縁あって出会えた今一緒に仕事している人が超秀才で、学歴ってのもあながち馬鹿にはできないぞと知った1年だった。

打ち合わせは大喜利だと思っているので、より早く誰も考えていなかった道筋を示すことを言うのが正解だと思っていた。

けれどその人は僕と同じスピードで、僕よりも10倍深く思考の海にダイブして帰ってくるのだ。

棋士が深く深く潜り込んで数多の選択肢の中から最良の手を選択するあれだ。

完全に負けたと思った。

物書きや表現の場では「俺が一番」と言えば、その時点でその人が一番になるけれど、ビジネスの場合は「最も良いサービス内容で最も儲かる仕組み」を考えた人が勝ちなので、勝敗はすぐにわかる。

その人に負けて、10年間の自分の思考方法や精神的な欠陥が5分で浮彫になった。

10年間でビジネス的には9の失敗と1の成功があったけれど、その1の成功ももっとうまくできた。

9の失敗が活かせてなかった。

後悔は辛い。

ゲロ吐きそう。

大人になってなるべく後悔したくない。

井の中の蛙が無冠の帝王を気取ったところで、結果が出せなかったらただの無能。

自分の無能っぷりを認識して1から思考を構築できたことが2015年最大の実りかもしれない。

クソみたいなアイデアも資本があれば成立すると思っていたけど、大資本の下で働いている人も思考の即興性や深く潜る肺活量や体力を必要みたい。

有名企業で働いている人達に対して、正直、学生の頃から今を生きないで将来のキャリアしか考えていないステータス主義の退屈なボケ共だと思っていたけど、みんながみんなそうじゃないみたいだ。

「こいつらから会社の名前取ったらなんにも残んないんだろうな」と正直言って今までナメ腐っていたけれど、少し改めようと思う。

先日、ニューズウィークで日本人が世界で最も冒険心とチャレンジの意欲がないという記事を読んだ。

正直、「みんな挑戦していこうぜ!冒険していこうぜ!」なんて微塵も思わない。

冒険心とチャレンジの意欲がなくても、おとなしく働いていれば贅沢はできなくても平穏に暮らせる日本はマジで凄いと思う。

これから爆発的に格差は広がるなんて言われてるけれど、基本的に真面目な人間がそれなりに報われるのが日本だ。

世界で最も冒険心とチャレンジの意欲がなかったとしても卑下する必要なんてないだろう。

気になったのは「なぜ挑戦しないのか?」という理由についてだ。

ダントツ1位の理由は「失敗して笑われるのが恥ずかしいから」だった。

おいおい、マジかよ。としか言えない。

大人が挑戦という決断をするにあたって、よく知らない他人のクソどうでもいい揶揄を気にするなんて非合理的過ぎるし、感情的にも幼過ぎじゃないだろうか。

この件に関してダチンコ達と議論を交わした。

受験、就職と戦ってきて「失敗=負け」という意識なのではないか。

学校生活の中で育んだ、出る杭は打たれる系の負の集団意識のせいではないか。

負けたらそこで終わりという期限付きスポーツ教育の弊害(僕の意見)。

など色んな意見がたくさん出た時に、誰かが言った。

「そもそも、失敗したヤツを笑う人間なんて極少数の稀な存在なのではないか?」

ピッキーン!

たしかに!と思った。

「失敗すると笑われる」「失敗は許されない」という一般論を頭から信用していたけれど、実際にそんなクズ見たことも会ったこともない。

この手の話をすると必ず出てくる「ネットにはたくさんいる説」も、1の悪意が1000にも10000にも大きく感じて、子どもの投稿を僕らが勝手に誇大評価してしまっているだけなのではないだろうか。

異物だから目立っているだけではないだろうか。

例えば仲の良い友達が事業に失敗して、笑うクズなんて本当いるのだろうか。

僕の周りでも何人かが新しい挑戦をスタートした。

その友達が失敗した時に笑うかと考えた時に、どこにも笑う理由がなかった。

なんにも面白くない。

僕らは存在しない悪意という化け物を相手に委縮しまっているのではないだろうか。

実際に世の中には人の失敗を嬉々として喜ぶ残念な人もいるだろう。

失敗しないように慎重に生きてきた自分を肯定する為に、他人の失敗を嘲笑する人もいるかもしれない。

だけどそれはごく稀な存在だ。

そういう人はたまに電車で見かける「ふっざけんじゃねえぞ!どいつもこいつも!俺が悪いんか!お前が悪いんか!次で降りろ!」と天井に向かって叫んでる心が壊れてしまった人みたいなもんで、なにか辛いことがあっただけだろう。

クソみたいな人間や意見はやたら目につくけど、それが人の全てじゃない。

きっと僕らはちゃんと優しい。

人生は有限だから、無駄なことのせいで判断を鈍らせることは、ステータスをひたすら追い求めて死ぬくらい勿体ないことだ。

そんな感じでB’zの鬼名曲「あいかわらずなボクら」を元andymoriの小山田壮平カバーverをどうぞ。

「いつでも正しい人なんているのかな
まあ そんなこと たいした問題じゃないネ
行こうよ行こうよ あいかわらずなボクら」

こんな普通の歌を友達と肩組んで歌えたら僕もうそれでいいよ。

それがいいよ。

 

andymori復活しないかな。

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ハヤブサマガジン 2005年10月活動開始。 フリーマガジン「ハヤブサマガジン」を日本全国のフットサルコート、スポーツバーなどに配布。 vol.7をもって活動停止。2013年、ウェブマガジンとして活動再開。ブログは日常の話です。