大学卒業前くらいだろうか。
映画『耳をすませば』の舞台である聖蹟桜ヶ丘の高台へ、友達と一緒に車で行ったことがある。
なぜ行こうとなったのか全く覚えていないけど、とにかく時間はあったのでいつものように突発的に行くことになったのだと思う。
駅前のコンビニで女子高生のバイトの子に場所を尋ねるも、そもそも彼女は『耳をすませば』を知らなくて、適当にあっちだこっちだと走っていたら「あ!ここだ!」という場所にたどり着いた。
そこからは新宿のネオンが星みたいに輝いて見えて、本当に映画のままの風景が一面に広がって、息を飲んだことを覚えている。
絶対に忘れないことなんていくつもないけど、あの時の光の輝きはきっとずっと忘れないと思う。
ふざけて笑う隙もなく、ただただみんなで光を眺めた。
漠然と広がる闇、そこで輝く光とその数の分だけある生活、季節や明日やもっと先のこと。
あの時、みんなは何を思っていたのだろうか。
そして僕は。
きっと未来は超楽しいはずだぜ!って平気で希望を言葉にしたし、みんなもきっと心からそう思っていた頃の話。
光り輝く方へと進み帰る車内で、全員でGOING UNDER GROUNDの曲を合唱した。
聖蹟桜ヶ丘で光を見てから十数年、そして僕らはどうにか大人に近いものになった。
その間には想像もしていなかったことが山ほど起こり、辛いことや悲しいこともたくさんあった。
そして同じくらい嬉しいことや楽しい出来事があった。
みんな可愛い奥さんと結婚して、可愛い子どもがいたりするなんて、デタラメに生きてるからそんな幸せなんて手に入んないと思っていたのにね。
良くも悪くも物事は思い通りには行かず、苦悩と挫折の分だけ心の中にある希望が磨り減っていったけど、僕が思っていた以上に僕の中の希望は大きく、幸いにもまだ残っている。
僕のハートの中にある希望は、例えばそれは車の中の合唱だったり、言葉にできない気持ちを誰かと共有したり、そんな風に作られてきたのだろう。
青春時代と呼ばれる時期に作られたモノが今尚僕の生活を支えているのであれば、今も青春時代の中で生きているということになってしまう。
10代に大人達から聞いていた話と違う。
大人になったら大人になると思っていたけど、今もクヨクヨやドキドキやメラメラが胸の中でごちゃ混ぜになってキャーって感じ。
こうも青春時代が長いのであれば、大切に守ってきた何かが変わらないことを切に願ってきたことが恥ずかしくなってくる。
願わなくたってそう簡単には変わりはしなかったんだ。
いったい僕は何と戦っていたのだろうか。
踊り場ソウルが一夜限り復活して解散する。
こうして青春について考えるには十分過ぎる理由だ。
東京の夜は万華鏡を覗いた世界のように、どろりと輝いている。
鈍く光り、今あった景色は瞬く間に消え、もう何を見たのか思い出せない。
得体の知れない、けれどよく知っている空気が身体を包む東京の夜。
ガソリンと排気ガス、下水と生ゴミと香水の臭いに安心する。
どこにでも行けるような、どこにもたどり着かないような。
あちこちにランドマークと光があるのに、漂流にも似た心もとない気分になる。
何も起きないことも、何かが起きることも当たり前な夜の海を漂流している。
寂しさや優しさや笑い声や悲しみも全て平等に揺れる。
夜の水面は心地よく波打ち、僕らをどこかに運ぶ。
時に遠く別の闇に消えてゆく友に手を振って、僕らはどこかへ運ばれてゆく。
果ても先も見えない暗闇を見つめながら、僕は親友の歌をいつまでも歌おう。
「My Life style is original 僕は夜に歩き出す」