家の前のゾンビしか住んでないような築500年くらい経過した風情の団地の中庭ではカエルがドラムンベースのビートのように毎晩うねりを上げている。
オゥンドゥ~オゥンドゥ~オゥンドゥ~オゥンドゥ~オゥンドゥ~。
僕はカエルが好きなので、全く苦じゃないけど、嫌いな人が近所に住んでいたら中庭にまんべんなく毒をまきたい気分になっていることだろう。
階段に腰をかけ煙草を吸って、ここのところ好調な空を眺めていると、原色の緑色のインコよりも大きくてオウムよりも小さい鳥が3羽並んで飛んでいた。
この3羽を見るは初めてじゃない。
ここらへんの上空をいつも飛んでいる。
きっと誰かが飼えなくなって逃がしたのかもしれない。
好き勝手に自由に暮らしているみたいだ。
そういえば僕も緑亀を清澄庭園に逃がしたことがある。
達者で暮らしていることを願うばかりだ。
夏について、予感を通り越して既に実感している二の腕が太陽の熱で焦げ付く感じを楽しみながらビールを呑んでいると、突然イメージが散文的に頭の中を通り過ぎる。
それはフラッシュバックなんて横文字で言うのはふさわしくない黒歴史のコラージュだ。
全ての過去が黒歴史だと僕は胸を張って言える。
特に夏の思い出なんか恥ずかしい負けっぱなしの黒づくめの出来事ばかりのように気がする。
正しい記憶かどうかなんてどうでもいい。
そんな気がしてるって話だ。
しかし、6年くらい前に「僕は今まで全てのことにおいて勝ち組です。」と初対面の僕に対して堂々と言った人がいた。
有名な大学に行って、電通で働き、電通から出向して有名企業で働いていた人だ。
僕は社会人なのでもちろん笑顔で「それは素晴らしい!羨ましいかぎりです。」と応えた。
きっと彼には黒歴史なんてないのだろう。
おそらく彼が死んだ時、戒名には「無敗」の二文字がきっと入るはずだ。
こんなこと当たり前過ぎて言葉にするのも恥ずかしいんだけど、黒歴史が多い方が人生楽しいに決まってるんだよ。
無敗には残酷な事実だから言いにくいんだけどさ。
僕は人生の豊かさとは小話の数だと思っている。
小話とはズッコケで、ズッコケとは失敗で、失敗とは経験で、経験とは強さで、強さとは優しさで、優しさとは愛なんだだと。
どうせこの考えも間違っているだろうけど、僕の中では絶対的に正解なんだ。
もしも僕が無敗の彼と友人で、「小3でも知ってることなんだけど、黒歴史が多い方が人生楽しいに決まってるんだよ。君の人生はなんと味気なく寂しいものなんだろうね。お疲れ様です。」と言ったら、無敗は一体どう応えるのだろう。
やっきになって無敗伝説について話し始めるか、負け組が何を言うかと鼻で笑うか、それとも電通の凄さについて語り始めるか。
しかし、もちろん豊かさや優しさやそれらの類の定義なんて人それぞれ違うものだ。
シェアするものでも分かち合うものでもないんだろう。
だから無敗のことを死んだも同然の屍野郎と思っているけれど、無敗の生き方の否定はしていないつもりだ。
僕の中の事実を言うことが、誰かを否定することになるなら、それはとても心外だ。
SynGuider
僕の中での事実を他意なく話すと、なんでそんな人の神経を逆撫でするような表現をするんだと怒られることが多い。
例えば、キテイーなどのぬいぐるみを後部座席の頭の所に置いてあり、ピンクのヒョウ柄の何かしらが車内に置いてあったら、白枠からセンスのないはみ出し方で車を停めていたら、その車の持ち主は間違いなく生ゴミ馬鹿で、深夜のドンキホーテに週に6回くらい通っていて、自分より弱い人間に対しては強気になって迷惑をかけ、「昔は悪かったぜ話」などの格安の想い出話を後輩に話すのが楽しみの1円カップルだと決まっている。
ドンキホーテの「激安の殿堂」って激安の人たちの集合場所という意味なのもしれない。
と、そんなことを言うと嫌な顔をされることが多い。
間違っているかもしれないけれど、僕の中の事実なのだから仕方がない。
だけど好きな人からそういう表現はやめてと言われたら、3秒で中止する。
僕はただちに中止する。
昔からの仲間のツヨミ君が結婚した。
ツヨミ君の結婚には語りつくせぬ想いがある。
ノリさんと阿部ちゃんとツヨミ君と僕だけが分かち合っているスタンドバイミー的想いだ。
なんだか胸がいっぱいになって思わず眼球が痛くなってきた絶妙のタイミングで、ヒロ(超合金)が「いよぉっ!ツヨミ、にっぽんいちぃぃぃぃいいい!!」と発作的に叫んだので笑ってしまった。
それがいいと思った。
笑ったほうが絶対にいい。
ヒロはあの瞬間、間違いなく正義だったよ。
最後に必ず正義は勝つ。
僕らは南浦和の結婚式場でずっと腹抱えて笑っていたよ。
ツヨミ君、おめでとう。
会えなくても、会わなくても、ずっと仲間だ。