暗闇の中でババアがうずくまっていた。
夕方、北品川のイオンに行こうとママチャリで家のすぐ横にある坂を下っていると、中腹あたりの地面で動くものが見えた。
昔、友人が夜中にマンホールに上半身を突っ込んでいる奴を見たことがあることを思い出し、怖いもの見たさで自転車を止めてよく見てみると、おばあさんだった。
おばあさんはゆっくり立ち上がり、フラつきながら横の壁に頭をぶつけまた地面に倒れた。
近づいて、大丈夫ですか?と声をかけると、おばあさんは「私は大丈夫ですから、犬を、犬を」と坂の下を指差した。
おばあさんが指差した方向には、足を引きずりながら坂を下っていく白い犬が見えた。
「あのコ、バカだから、どっかに行っちゃうから、つかまえてください」とおばあさんは額から血を流しながら僕を見え上げた。
気持ち悪いなと思いながら犬をつかまえにママチャリを走らせた。
犬は薄汚れたポメラニアンで後ろ足片方を引きずりながら、坂をゆっくりと下っていた。
僕は犬、特に小型犬が大嫌いなので触りたくもないけれど、額から血を流した年寄りの頼みとあってはそうも言ってられない。
このままバックれたらどんな呪いをかけられるかわかったものじゃない。
犬の持ち方もわからないので、ポメラニアンの胴体を掴んでママチャリのカゴの中に入れた。
ポメラニアンはカゴの中で「ピシューピシュー」と不気味に鳴いていた。
坂を上がり、地面に体育座りになっているおばあさんのもとにポメラニアンを持っていくと、おばあさんは「このコは馬鹿!なんで勝手に行っちゃうの!馬鹿!馬鹿!」とポメラニアンの頭を叩きはじめた。
犬の片足が悪い理由をなんとなく察して、気味が悪くなった。
おばあさんはポメラニアンを抱きしめながらゆっくり立ち上がったが、まだフラフラしていた。
「救急車呼びましょうか?」
おばあさんはポメラニアンを抱きしめたままうつむいて首を横に振った。
「近所だったら送りましょうか?」
おばあさんは顔を上げると泣き始めた。
「こんなに人に優しくされたことなんてないから。うううううう」
ババアから強烈な酒の匂いがした。
「大丈夫です。家はすぐ近所なんで。このコも助けてもらって、優しくしてもらって。こんなに優しくしてもらったことないから。うううう」
あ、そうすか。じゃ。と立ち去ろうとすると、おばあさんは「あの!」と大きな声を出した。
「あの、お名前だけでも教えてください。うううう」
僕は「ただの近所のモンす、それじゃ」と立ち去った。
それから2ヶ月経つが、近所に住んでいるはずのババアを一度も見かけていない。