友達がいなくて、キックベースにも誘われないので、路地裏の猫を追いかけたり、つばきの汁を吸ったりしながら遠回りして家に帰っていた。
テレビゲームも下手くそで、漫画にも詳しくなく、極めつけには小太りで運動もできないのだから、友達ができるわけなかった。
学校で過ごす1日がとても長く退屈だったので、11歳の僕はどんどんと陰気になっていった。
たまに家にクラスメイトが「クワいますか?」と訪ねて来てくれても居留守を使った。
いつもの帰り道、塀からはみ出た木の枝にはザクロの実が生っていた。
実を傘で突いて、落として食べようとしていた時に突然「クワッ!」と呼ばれた。
僕のことを呼んだのはクラスメイトのイワだった。
1年中顔が日焼けしていて、大きな目を見開いて常にデカい声で話す野球少年、イワ。
クラスでは「お笑い担当」でギャグやフレーズを発明しては流行させ、野球少年のくせに髪の毛が長かったので女子からも人気があった。
面白い上に運動ができるイワが僕に何の用かと不安になると同時に、1人でザクロを採ろうとしているところを見られた恥ずかしさで居ても立ってもいられなくなり、逃げた。
5秒もしないうちに肩を掴まれた。
「なんで逃げんだよ?」
「いや、もう、帰るから」
早歩きで家に方に向かうと、イワは僕の前に立ち塞がった。
「今からウチ来いよ」
イマカラウチコイヨ?
「なんで?」
「だって俺達遊んだことないじゃん。うち来いよ」
1990年代のはじまり、江東区の下町には野良犬もまだいて、知らないおじさんにも頭をひっぱ叩かれた時代だった。
そして、みんなおせっかいだった。
その当時、江東区越中島にはトタン屋根の平屋が連なってる一角があり、その一帯の全ての家は玄関の外に洗濯機が置いてあった。
そのエリアは地元の人しか入ってはいけないような気がしていたので、同級生もたくさん住んでいたけどあまり近づかないようにしていた。
初めて歩く路地に僕は緊張して、すれ違う大人達の顔を見ないように歩いた。
なるべくイワから離れないように早歩きで後ろをついていった。
イワの家は6畳1間で真ん中に丸いちゃぶ台が置いてあり、壁際にはふとんが高く積まれていた。
「なに飲む?」
「いらない」
「水でいい?」
「うん」
サントリーとプリントされたビールグラスに水道水を入れて僕の前に置いた。
「うち狭いだろ?」
「うん、狭い」
「姉ちゃんと兄ちゃんもいるからすげー狭いよ」
「おじさんとおばさん入れたら5人だもんね」
「あれ知らないの?俺んチお母さんいないよ」
「なんで?」
「知らね」
なんか悪いこと聞いちゃったなと思って次の言葉を探して黙っていると、イワは大きな目を輝かせて言った。
「でも、とおちゃんは社長なんだぜ。しかも昔、キックボクシングのチャンピオンだったんだぜ」
イワは壁に貼られたキックボクシングの大会ポスターを指差した。
ポスターの真ん中でファイティングポーズを構えているのが、イワのお父さんだった。
それからイワは最近起きた面白いことや誰にも言っちゃいけない秘密を僕に話してくれた。
僕はうん、うんと夢中になってイワの話を聞いた。
気が付くと夕方になってしまったので帰ろうとすると、汚れた作業着姿のイワのお父さんが帰ってきた。
イワのお父さんはイワにそっくりな顔をしていて、僕に満面の笑顔を見せてくれた。
夕飯に誘ってくれたんだけど、「帰らなくちゃいけないから」と断ってイワの家を出た。
それからイワは頻繁に僕を遊びに誘ってくれるようになった。
退屈で腐ってしまいそうな小学校生活はイワのおかげで少し楽しくなった。
卒業式の頃にはみんなとの別れを惜しむほどになっていた。
イワを含む何人かとは卒業してからも月に1回くらい小学校の校庭で遊んだ。
けれどそれぞれが違う中学校に通っていたので、気が付けば校庭で会うこともなくなり、中学の友達と映画を観るようになった。
そして多くのことを忘れ、江東区から違う街に引っ越した。
高校1年になった僕は小学4年生の頃のように塞ぎ込んで世界を呪っていた。
なんだか周囲とノリが合わず、かといって友達がいないわけでもなく、生粋の帰宅部として吐きそうな退屈な毎日を過ごしていた。
秋葉原の裏路地にある電気パーツ店の奥まったところに良質なアダルトビデオが100円で売っているという情報を得た僕は、授業が終わると急いで学校を出た。
噂の店に到着すると、情報では「奥まっているところに密かに売られている」という話だったのに、店前の道路に置かれているダンボールでアダルトビデオが売られていた。
同じジャケットが何本もあるので、その質に疑念を抱きながらも5分くらい掘って「これはもしや」な1本を選んで購入した。
学校カバンにアダルトビデオを入れ、秋葉原駅に向かい改札に入ろうとした時、後ろから「クワッ!」と呼ばれた。
金髪オールバッグに太ももまでズリ下げられたズボン、ラルフローレンの白いカーディガンに両耳ピアス、そして真っ黒な顔に大きな目。
イワだった。
数年ぶりに会ったイワは見た目はゴリゴリの不良になっていて、後ろには4.5人の同じような恰好をした男子高校生が眉間に皺を寄せてこっちを見ていた。
イワの隣には今すぐに水商売で働けそうな金髪ギャルが眠そうな顔で僕の顔を見ていた。
「超久しぶりじゃんかよ!」
イワは力強く僕の肩を抱いた。
早く帰りたいと思った。
イワは僕の肩を抱きながら、今通っている学校の話や同級生のみんなが今何をしているのかを挨拶抜きで一気に喋った。
僕は「あぁそうなんだ」「へぇ~」と相槌を打ちながら、まわりの不良達が「早く行こうぜ!」と不機嫌にならないかハラハラしていた。
そんな僕の気苦労に反し、突然イワは不良達に僕のことを紹介し始めた。
「こいつはクワっつって、小学校の同級生なんだよ。マジですげぇ面白い奴なんだ。学校で一番面白かったんだよ」
イワは大きな目をさらに大きくして「なっ!」と僕の顔を覗き込んだ。
眉間に皺を寄せていた不良達は笑顔になって僕に「うぃーい」と拳を突き出してきたので、僕も「うぃーい」とささやき、うつむきながら拳を合わせた。
それから10分くらいイワは話し続けた後、「これから遊びに行こうぜ」と言ってくれたけど、それは断った。
その年頃の性欲を知っている人なら、なんで断ったかはわかってくれるはずだ。
あと不良はやはり怖いから。
帰りの山手線の中で、僕はイワが言ってくれた言葉を頭の中でずっと反芻していた。
そんな風に思ってくれていたなんて、全く知らなかったから胸がいっぱいになった。
なんにもない、運動も勉強もできないニキビ面で小太りでモテない上に多感で面倒臭いという最悪の時期だったので、イワの言葉は救いだった。
僕はもちろんポケベルなんて持っていなかったので、連絡先も交換せずに別れてしまった。
別れ際にイワはズボンをズリ下げ、笑顔で僕に手を振ってくれた。
きっといつかまた僕が世界を呪った時、後ろから「クワッ!」と呼んでくれるだろう。
購入したアダルトビデオの内容はセーラー服を着たババアが「趣味はなんですか?」「好きな芸能人は誰ですか?」「憧れの人は?」などの死ぬほどどうでもいい質問に、何のひねりも入れずにエロさの欠片もない返答を10分間淡々と繰り返し続けて終わるという呪怨クラスの恐怖ビデオだった。
そのビデオを「こんな名作は今まで観たことない」とクラスメイトに貸した翌日、激怒したクラスメイトにミゾオチを殴られ胃液を吐いたのは、また別の話。