思い返せば、ここ何年も年越しの日に漫画ブラックジャックを読んでいる。
手塚先生の天才っぷりに自分の稚拙なアイデアなど加熱されたゴミムシのようなものだと恥ずかしくなる。
ごっつええ世代のせいか、視点を変えて発見する笑いが骨身に染みついているので、そのおかげで街を歩くだけでコメディー映画のように馬鹿馬鹿しく滑稽な様子をいくつも発見できる。
それはそれで愉快だ。
だけど僕自身は果たして面白いのかという最も肝心なことをぽっかり失念していたことに気が付いた。
ITニュースやそっち系のトレンドやテクノロジーを馬鹿みたいに追いかけていたら、大事なことを忘れそうになっていた。
僕自身は面白いのか。
あれだけ馬鹿にしていたシニカル気取ったチキンになっているのではないか。
それだけにはなりたくない。
分析して誰かが言った言葉に乗っかって調子コイてる間抜けだけにはなりたくない。
誰かをこけ落として冷めた笑いを誘うような文化レベルの低い真似はやっていないか。
数字や肩書きや大きさで人や物の価値をはかるような情けない恥ずかしい真似はしていないか。
愛を持って人をいじれているか。
誰かの心臓の位置を左右逆にするようなパンチラインが僕の口から出ているのか。
そんなことがハゲよりも加齢臭よりも稼ぎよりも気に病むことだ。
結婚式や人前で話すことを頼まれた時、僕は昔から何の用意もせずに壇上に上がる。
90年代中期のヒップホップブーム直撃世代なので、根がB-BOYだから即興は当然の美学だ。
その瞬間その刹那にエモーショナルの神が降りてくることが当たり前だと思っているから、怖くもなんともないし、今でも怖くない。
しかし、僕はここ最近は趣味でモノを書くのに夢中で、口語と真摯に向き合っていなかった。
そういう人間にエモ神は降臨しない。
僕の兄弟、野村さんが10月に結婚するに当たって、僕は自らスピーチいや、シャウトさせろと名乗り出た。
自分からやらせろと言ったのは初めてだ。
野村さんのユニークさを本当に理解しているのはこの世に僕と土屋しかいない。
2人もいれば充分だ。
土屋はあれで良識人だからソツなくこなしそうなので僕は名乗り出た。
野村さんのガッチガチに堅い(それはまるで野村さんのお侍さんa.k.a.ドラゴンソードのようにガッチガチに堅い)親戚の皆さんに、「ズーカーにはあんなドープなダチ公がいんのか。あん?」と言われたい。
野村さんは僕がメチャクチャなデタラメなことを言わないか心配しているかもしれない。
本当だったら野村さんにロウを垂らしながら、もしくは電気椅子に座らせてスピーチしたいところだけど、僕も土屋に負けず良識人でジェントルマンだからそんな真似はしない。
野村さんが机の引き出しにエロCD-ROMを隠していたことも内緒だ。
みんなで旅行に行って朝起きた時、野村さんのドラゴンソードがエクスカリバー状態になってしまって、布団から出られなくなってしまったこともショナイだ。
そういうプライベートな話を僕は胸にしまっておく古風なタイプだ。
野村さんの家には19体の幽霊がいるとか、野村さんはカルト宗教の幹部だとか、野村さんは宇宙人に脳をイジられたことがあるとか、野村さんはリアルにロリコンとか、僕は野村さんに関して16年間で2000個くらいの嘘を周りについてきたが、今回は嘘はなしだ。
ノーダウト、ユノンセイ?
僕は野村さんの結婚式まで自分が退屈な人間にならないように注意深く生きるだろう。
野村さんの誠実さに応える為には、それくらいの準備が必要だ。
きっとディッキーズの短パンを履いているエモ神が降臨し、僕のスピーチに野村さんもスタンディングオベーションするだろう。
この場合、スタンディングオベーションは言葉通りそのままの意味であって、変な意味ではないので安心して欲しい。