さよなら田町ハイレーン

授業をさぼって校庭で堂々とサッカーで遊ぶ10数名の中に僕がいた。

アキラや弘一や飯田もいた。

3階の窓には「受験組」になった同級生の顔が見えた。

後から聞いた話だけど、受験組の担任が校庭で遊ぶ僕達を指差し、「あいつらは負け組だぞ。ああならないようにな」と言っていたそうだ。

誰かのヘディング、誰かのパスカット、みんなで飲む水のうまさや放課後なにして遊ぶかで盛り上がる楽しさを捨ててまで有名大学に受験をする意味が当時の僕にはわからなかった。

でもさすがに今ではその意味がわかる。

その先にある就職だ、つまりは金だ。

皮肉なしで17歳ですでに金のことを考えていた同級生をリスペクトしている。

だってお金は大事だから。

僕なんて友達と遊ぶ時間とショックウェーブから流れてくる音楽が全てだったから。

ある程度大人になってからやっと、普通に雇われて生きるのであれば高学歴に越したことはないと知った。

この世界は高学歴のほうが良い肩書きを早めにゲットできるシステムになっている。

それをすでに17歳の時に意識して生きていたなんて、マジで凄いと思う。

受験組ではない、高学歴ではない僕らはみんなが一生懸命勉強している時、太陽を感じ、熱を感じ、瞼の裏で虹を見て、雨に笑い、土に汚れ、音楽を身体で感じ、冒険活劇に胸を熱くし、誰かに恋をして、誰かを傷つけ、仲直りし、何かから走って逃げて、何かを渇望する日々を送っていた。

正直な話、教科書なんてろくに開きもしなかったと思う。

その結果、社会に出てから人よりもいくらか遅れて走り出すことになってしまうわけだけど、そんな17歳の日々こそが僕と僕らの今を作ったのだろうと34歳にして思う。

きっと僕らはいくらカッコつけようが、いくら日経ジャーナルを読もうが、あるいは自己啓発本を読もうがもう本質的に変わることはできないのかもしれない。

もう一度、17歳をやり直すことになったとしても僕は同じ生き方をするだろう。

少なくとも今はそう思う。

 

 

この数ヶ月間、禿げるほど考え事をしていた。

実際にたぶん禿げた。

5月初旬に締切のビジネスコンペに挑戦したんだけど、自分の経験値と知識の少なさのせいで重過ぎの壁が毎日目の前に立ち塞がった。

知らない横文字や謎の計算式は正直マジでうざかったけど、トレンド通り紺スーツを着てるような美意識の奴等がライバルだと思うと、絶対に負けたくないので超燃えた。

締切前夜から当日まで自問自答を繰り返して抜け毛がハンパじゃなかった。

体からガソリンの匂いがして、口から獣臭がした。

ハート以外の僕の全部が腐った。

きっとゾンビになったらこんな匂いになるかもしれない。

ボロボロになって作った1万文字の資料に熱と希望を込めて、6月末のジャッジを待っている。

賞レースに負けるのは心が引き裂かれる想いだ。

そこからまた立ち上がるのに1ヶ月くらいの時間が必要だ。

自分の才能の無さを認めるには勇気がいる。

懲りなさと諦めなさだけには自信があるけど、いい加減自分や家族以外からの評価を得なくてはいけないお年頃だ。

絶対に俺のがヤバイ!って胸の中のシャウトに、「じゃあそろそろそのヤバさを見せてくれよ」ともう一人の僕が半笑いで声をかけてくる。

笑ってんじゃねぇバカ野郎。と自分にツバをかける。

死ぬまで落ち着かなくていいから転がり続けて続けて僕は何かやらかしたい。

できることならそれが誰かの為になることなら最高だ。

恋人や家族や親しい友達がヤバいと思ってくれたら最高だ。

とにかく好きな人達に褒められたい。

愛はすでに十分に感じてるからもうこれ以上はいらないから、とにかく褒められたい。

たぶん褒められるのって超気分が良いもんなはずだ。

だからコケても続ける。

受け身の取り方ならだいぶ上手くなった。

 

 

正直な話すると、フェイスブックなどで子どもの写真を投稿する神経がわからなかった。

否定じゃなくて理解ができなかった。

けど今となってはよく理解できる。

たしかに子どもは自分が生きる理由や死生観を根幹から揺るがすくらい超かわいい。

そりゃ自慢したいさ。

自分の人生、時間、全て捧げたってまだ足りないくらいの愛情が体中の毛穴から漏れているのが親だろう。

子どもを虐待するような激安畜生男は対戦車ミサイルで木端微塵にして、それをゴールデンタイムで生放送すればいい。

子どもを虐待するような1円底値女は腹を切り裂いて、こぼれ落ちた大腸を口に詰め込んで100回くらい窒息しかけて死ねばいい。

僕はフェイスブックなどには子どもの写真をろくに投稿できない。

マサキなどのごく親しい友達の子どもの写真は毎日でも見たいけど、僕はそれをできない。

さかのぼれば、18歳。

ある日、アザラシこと土屋が「彼女いるとかダサくね?」と言った。

僕は妙にその考え方に共感してしまい、それ以来、彼女がいてもいなくても、知らない人には「彼女はいない」と言うようになり、そのまま大人になってしまった。

今でも結婚してるというのは恥ずかしいし、嫁や妻などの表現はできない。

旦那ちゃん、お嫁ちゃんなどと他人に自分の連れ合いを誰も求めてないのに一方的に紹介する文化が一部にあるけど、僕は絶対にその世界には入れない。

犬や猫を自分の子どものように扱い「うちの子」と言い、飼い主をママ・パパと表現する世界と同じくらい無理だ。

どんな呪いで子どもが犬になったんだと思ってしまう。

正直言うと「肌荒れが治るくらい娘が可愛いからみんな見て見て!」というのが本心だけど、そんな感情は誰にも悟られたくない。

女、子どもなんて知らねえよ、俺は自分勝手に生きてやるぜという設定とキャラクターのほうがしっくりくる。

本当のことは家族だけが知っていればいい。

僕の経験論からすると恋人でも夫婦でも人様にうまくいっているアピールするカップルは78%の確率でうまくいっていない。

なので久しぶりの友達には「もう3ヶ月くらい家に帰っていない」と嘘をつく。

18歳の時に土屋のせいでこじらせてしまったので、なんのタメにもならない無駄なこだわりと感情と抱いたまま父親になってしまった。

それにしても彼氏君とか彼氏様とか、なんだか腹が立つ恋人の呼称を目にする。

男をそんな呼び方する彼女様のほうは100%歯並び悪くて依存癖があるんだろうなって心の中で思うけど口には出さない。

 

 

だいぶ前、震災から1年くらい経った頃にツイッターで僕のある投稿に対して知らない人から「ハヤブサさん意識高いっすねwww」という返信がきた。

僕はそれを皮肉だと知らずに「ありがとうございます。頑張ります」なんて返事を返してしまった。

何年か経った今、ふとその時のことを思い出す。

一体あの人は僕に何を伝えたかったのだろうか。

 

 

Budda BrandのDEV LARGEことD.L氏が先日亡くなった。

さんぴんキャンプでの証言のパフォーマンス。

あのD.L氏のステージングで多くのヘッズをさらにヒップホップの深みに足を踏み入れるきっかけになったと言っても過言ではないだろう。

それくらいカッコ良くて革命的だった。

アメ横の脇に入った横路地にある謎な婦人服店で売られているようなライオンの顔が全面にプリントされたTシャツを着て証言7をラップしていた。

人間発電所のリリック通り、「普通じゃない 並はずれてる 人とは違う 独創性に富む」ファッションスタイルだった。

美意識にビビビッと影響を受けた。

今でも古着屋でエネルギーを感じるTシャツをディグってしまうのは、間違いなくそのせいだ。

98年に越後湯沢の駅のホームでD.L氏とMURO氏がいるのを発見して、僕は委縮し過ぎてしまったので、一緒にいた友人のあだっちゃんに声をかけてもらい握手してもらったという素敵な思い出がある。

その時、両手で目を見て力強く握手してくれた。

僕はそれ以降、初対面の気の合いそうな人とは目を見て両手で力強く握手することにしている。

D.L氏の訃報を聞いたのは、偶然にも野村さんとブッダの話とデブラージの物真似で盛り上がった翌日のことだった。

D.L氏のご冥福を祈る。

 

 

2015年前半は僕の引っ越し、弟の高校卒業と大学入学、そしてGの帰国など色々とあった。

僕は芝という古くからの屋形船の船宿がひしめくエリアに引っ越した。

引っ越した翌日に左右と下の家に挨拶に行くと、ビックリするくらい感じの良い人達だった。

挨拶が迷惑がられる可能性がある時代なので、こっちも恐る恐るだったけど全開のウェルカム感に感謝した。

廊下ですれ違う人達やエレベーターで一緒になる人達もばっちり挨拶をカマしてくれる。

女子高生とエレベーターで一緒になった時に、それだけで謎の罪悪感を感じてしまい、隅っこに寄って背中を見せていたら、そのコが降りる時に「失礼します。おやすみなさい」と元気よく言ってくれた。

僕は緊張して「おっ、お疲れさまでした!」っとズレた返答をしてしまった。

あのコにキモいと思われていないか気になって仕方ない。

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ハヤブサマガジン 2005年10月活動開始。 フリーマガジン「ハヤブサマガジン」を日本全国のフットサルコート、スポーツバーなどに配布。 vol.7をもって活動停止。2013年、ウェブマガジンとして活動再開。ブログは日常の話です。