JIN AKANISHI

今年の夏はどんな楽しいことが起きるのだろう。

きっと今頃みんなもアジサイや、雨上がりの入道雲に胸が躍っていることだろう。

シティーボーイは昨日のことは気にしないけど、季節や雰囲気の移り変わりにはとても敏感という繊細な部分がある。

いつもより派手なTシャツを着て、いつもよりセクシーなワンピースを着た恋人と歩くのもいい。

イヤフォンで音楽を聴きながら、友達が待っている30分300円で飲み放題の店に向かう時のワクワク感も素敵だ。

それぞれがスケジュールを調整できるように努力して、遊びの計画を立ててる時間も楽しい。

高萩の雄大な海にまた行こう。

夏祭りにも行こう。

よく知らない街を呑みながら歩こう。

他の大人達じゃ思いつかないような企画で子ども達を笑わそう。

音楽の聴く量は増えるばかりだけど、フェスはガキの頃から行ってるからさすがに飽きた。

山奥のレイブから東京のど真ん中まで、フェスカルチャーが最も楽しく危なかった時代に青春時代を過ごせたことは幸いだ。

忙しさに飲み込まれないように、誰かの生き方に似ないように、何かにコントロールされないように、注意深く、そして僕らは大人になった。

 

 

高速道路を走り、遠く向こうに新宿のビル群が現れる頃、右手にはベッドタウンと呼ばれる街の光が見えてくる。

一度も訪れたことがない街だけど、部活帰りの学生、お母さんに怒られている少年、缶ビール片手にぼんやりと歩くサラリーマンの姿に目に浮かぶ。

街の匂いや静けさ、そこでかつて起きた甘い恋やすれ違いも頭に浮かぶ。

いつかの恋人も、もしかしたら母となり、このベッドタウンの片隅で暮らしているのかもしれない。

家族でビルの間に消えてゆく夕陽を眺めて「ママきれいね」とほほ笑む娘の横顔に思わず涙しているかもしれない。

そして子どもの知育教育のパンフレットと通帳を見比べて唸っているのかもしれない。

僕らはもうそういう年齢になったのだ。

暮らしたことも、ほとんど行ったこともない街ベッドタウンにどうにも切ない気持ちになってしまうのは一体どういうわけなのだろう。

色白のあのコも団地の階段から僕と同じ夕陽を眺めていると思ったら、どうにも身動きが取れなくなってしまう。

僕がしてきたひどいことや悪い言葉が、僕の身体をオレンジ色に染める。

そうして新宿に着く頃に謎の罪悪感で鬱っぽくなっていると、ガキの頃からのダチ公である土屋の住む家が見えてきて、気持ちが不思議と晴れる。

ベッドタウンはもう遥か後ろ。

思い出と空想のすれ違いはただの刹那の出来事で、もう消えてなくなった。

 

 

ところで自分が幸せであると、昔の女の子を思い出しお節介にも幸福を願っちゃうなんてのは男の性。

だけど何人かの女友達に聞いたら、昔の男が幸せだろうが死んでいようが全く興味ないらしい。

哀愁もクソもなくマジで興味がないらしい。

知り合いの料理とか物撮りばっかのインスタくらい興味ないらしい。

その姿勢は前向きで素敵だと思う。

 

 

タバコもやめたので、何の気なしに街や空を眺めることも少なくなった。

夜の匂いを深く嗅ぐと、むせ返るような焦燥感で内臓がグァアとなる。

この匂いも雰囲気も全部知っていて、今までに何回も感じたことを思い出し、過ぎてしまった年月を感じてしまって妙な気分になった。

置き去りにしてきた、言葉にできなかったいくつかの気持ちがヒョッと顔を出し、まるで思春期の頃から一歩も進んでいないような気分になる。

ティーンエイジフォーエバーなんて歌があったけど、彼らはこの気持ちを歌いたかったのかもしれない。

十代の頃のままではいられないけれど、十代に感じたモノや見てきた景色は永遠なのかもね。って感じのことを。

何となく何かを見失っているような気になり、花壇のへりに腰をかけ、走るベントレーやアイフルのネオンを眺める。

ため息をついたことに少し後悔した。

ため息なんてクソだ。

みんなも帰り道の夜に突然グァアとなったりしているのだろうか。

今度聞いてみよう。

そこから生まれる何かもありそうだ。

それはシェアなんかじゃなくてハートの共鳴だ。

 

 

一体僕は何度この言葉を吐くのだろうかと思うけど、あいかわらず物事の80%はうまくいかないし、予定通りに事が運ぶことも稀だ。

それでも人は絶望や負の何かを振り切るために走り続けて、夢や希望に手を伸ばしてるんだからイケてる。

打ちのめされ、「いつかハワイに家買ってやるから待っててくれよな。別にハワイに住みたいわけじゃないけどね」といつもの大風呂敷で悔しい気持ちを誤魔化した夜。

そしたら「一緒にいるだけで幸せだから」と木綿のハンカチーフみたいなアンサーが返ってきて、クリティカルでやられた夜。

一体僕は何と戦っているのかとわからなくなった夜。

愛は僕の凡庸な想像を遥かに超えてくるを改めて悟った夜。

先人達が何万回も言ってきたように、人生は良いことと悪いことがいい感じのバランスでやってくる。

そのバランスをいい感じだと捉えるかどうかはその人次第だけど。

 

 

大人になって「やっぱりな」と思うことはたくさんある。

10年前にダサいなと思っていた大人達はやはり本当にダサかった。

彼らと年齢が近くなったことで、よりダサさがわかるようになった。

青年達よ、あなたが思った通り、彼らは都合が悪いことや自分が傷つくことから逃げて、自分のプライドを保つ為に諦め、誰かを馬鹿にしているような安物だから安心してもいい。

思考停止した人間達は考える人間やあがく人間を嫌う。

きっと邪魔くさいんだ。

彼らのあの手この手の悪意から脇目も振らず走って逃げるんだ。

自分に対しての純粋性を誰にも汚さすな。

もしも僕が中学の校長なら朝礼でこんなことを言って、「選民主義過ぎる」と見識ある御父兄から嫌われたい。

そんな御父兄を理屈で追い込んで、「悪いのは俺以外だー!俺は絶対正しいんだー!」と醜い姿を晒すのを眺めたい。

どうせそんなのもすぐに飽きるだろうけど。

 

 

福島に1週間出張していた。

震災の津波被害をモロに受けた海沿いの街で、町全体が晴れていてもどこか薄暗く、色も音もなかった。

大通り沿いに点在するチェーン店の看板の光は灯らず、「空き店舗」の看板が貼られていた。

もとの街の姿は知らないけれど、本気で復興を目指すのであれば観光と産業を作り出す必要があることは僕みたいな素人でもわかる。

絆や頑張ろうの時期は終わり、これから街の運営に関わる人達はメイクマネーの一点に注力するべきではないだろうか。

キャンドルや歌も素敵だけど困窮した人の心を救うのは金と仕事だと思う。

僕が東北の独裁者だったらカジノ建設の一点突破だけど、現実はマルハンとか色々な企業の利権に関わってくるから難しいようだ。

窮地こそ革命を起こしやすいのに勿体ない。

 

 

パチンコと言えば、いよいよ始まった超高齢化時代に潜んでいるシニアサービスのチャンスをみんな模索しているけれど、地方部における娯楽市場はしばらくはパチンコが圧勝のようだ。

とある山に囲まれた田舎町に仕事でしばらく滞在していた。

のどかな風景の中、休日だけど歩いている人も道往く車もほとんどいなかった。

しかしトイレを借りようとパチンコ屋の駐車場に入ると、空いているスペースを探すのにグルグルと回るくらい何百台もの車がパンパンに入っていた。

店に入ると耳をつんざくような騒音の中、年寄り達がズラーっと座ってパチンコを打っていた。

画面を見ながら興奮しているおばあちゃん、画面を見たまま口を半開きして死んだように固まっているおじいちゃん。

休憩ルームに入ると、マッサージチェアに漫画や雑誌がズラッと揃えられており、お茶も無料で自由に飲める。

そこでは顔見知りの年寄り達が談笑していて、地域コミュニティーの場として機能していた。

年寄りの貧困も社会問題になっていて、その背景にはパチンコがあるのは間違いないけれど、悪いことばかりではないのだなと感じた。

自分の親がパチンコに行っていたら絶対に嫌だけど。

パチンコの機械音に交じってなぜかエミネムの最低に暗い気分になる名曲『スタン』が爆音で流れているのも印象的だった。

サビはこうだ。

紅茶も冷めちゃったし そもそもなんで起きなきゃいけないの なんて考えたりしてる
朝から降ってる雨のせいで 窓ガラスも曇っちゃって 本当になんにも見えやしない
それにたとえ見えたって どんよりした空しか見えないし
だけど壁の写真に目をやると それでもいいよ悪くない そういう風に思えるの

http://oyogetaiyakukun.blogspot.jp/2014/01/stan-eminem.html

終わりゆく街で生きる少年少女の気持ちが憑依して、閉鎖感や息苦しさで今すぐ街を出たくなった。

 

 

弟が20歳になった。

留学先で同居しているタイ人の友達からたくさんのプレゼントを貰い、クラブでおっぱいの大きいオーストラリア人女性とハグして、「マジで戦争はワックだよな!」とサンセットビーチで世界平和を願うという、うつむきながら轟音でNUMBER GIRLを聴いていた僕とは正反対の大人のスタートを切っている。

いたずらっ子もさすがに20歳になると大人になったようで、母の日に「今日は母の日だね」と一言だけ連絡があったようだ。

その後に続く文を待っていたら1ヵ月が過ぎたけど、まだ何も連絡がない。

成人式は行きたくないと言うので理由を尋ねると、敵対していた中学校の連中が20歳になってもオラついているらしく、彼らと会うのが嫌だと言っていた。

僕は地元に友達がいないので知らないけれど地域社会ってそういう面倒がずっと付きまとうらしい。

「オラついている人達だけ島に隔離して殺し合いさせたら面白いのにね」なんて話をしていたら、そういう漫画がすでにあることを知り、立ち読みしてみたら登場人物達が想像していたよりもずっと不良で超怖かった。

なるべく怖いものは避けて生きたい。

15年前、僕は友達と3人で千代田区の成人式に出て、あまりの寒さで乳首が乾燥して切れて、Yシャツの胸の部分が血だらけになりながら夜の街を飲み歩いていた。

思えばそこから大人のなり方をミスってしまったような気もする。

一緒に成人式に行った1人は4月に双子の父となり、もう1人はロサンゼルスで暮らしていて、この前クリントン(ホワイトハウスでヤっちゃった方)本人と握手したそうだ。

 

 

近所にタワーマンションが建った。

僕はタワーマンションの実情に関してはかなり詳しい方だ。

まずとても出入りが激しい。

7割の人が5年以内に出ていくというデータもあるそうだ。

出入りが激しい背景として借主が投機的な商売しているケースも多いと思う。

芸能人にまとわりついている人間や胡散臭さが顔ににじみ出ている人間なんてのもたくさん見た。

そういう人達は気が付いた時には消えている。

年収1000万あるのに貧しいなんて冗談のような記事が少し前に話題になったけれど、あれは本当だ。

タワーマンションは成り上がりの象徴みたいなとこがあるので、見栄とか自己顕示でバンバンお金を使ってしまうので、お金がいくらあっても足りないというパターンだ。

例えば冬だと、足元は男なのにアグのボアブーツ、白のズボン、モンクレールのダウン、デカいサングラス、ゴヤールのバッグ、そして強烈に臭い香水という非の打ち所がない完璧な田舎者成金が港区のタワーマンションにはたくさんいる。

そして彼らは彼らに本当にお似合いの女性をいつも連れていて、その女性達も総じて臭い。

アクアマリンをシュシュシュシュシュシュと際限なく吹きかける男子高校生並みに臭い。

僕は彼らの生態や人生観はとても興味深いと感じ、すでに20年以上観察と研究を続けている。

彼らを馬鹿にしてはいけない。

彼らのようなお金で幸せを買うことができる人達が世の中の経済を回しているのだ。

経済を突き詰めて考えてゆくと、素足で革靴を履いてマセラティで幸せになれる人達のおかげで、僕らのように夜風の匂いと発泡酒で幸せになれる人間達が暮らしていけるとも言える。

お金の循環の話だ。

愛や優しさに感動していうような人間ばかりだったら食べ物すらまとめて手に入れることができなくなる。

3代目Jソウルブラザースのファッションを完コピする35歳と、毎日違うバンドTシャツを着ている35歳が共生する街、東京。

この街で自分と違う生き方を否定するのは愚かなことだ。

とはいえ価値観が違う人間と協和することは永遠にない。

互いの存在を目視しつつ忘れる、水槽の中を泳ぐ種類が違う魚どうしみたいなものだ。

 

 

東京は古くから地方からの上京してくる人達が新しい文化を作ってきたという背景がある。

トレンドを作っている人も、何かを仕掛ける人も都市開発関係者もほとんどが地方出身者だ。

だから、東京の移り変わりや新しいモノゴトに「は?」と思うのはいつも東京出身に人間だ。

思い入れや皮膚感覚が違うから仕方がない。

これは優劣や善悪の話ではない。

今の地方出身者の方達やその子どもがいずれは東京人になり、同じことを感じて憤るだろう。

それが東京の血液循環のあり方だ。

東京の人間にとって東京は日々退屈になり住み辛くなっていて、かつての東京人も同じことを思って憂いだはずだ。

商業複合施設やビルの乱立、どこもかしも空きだらけの駐車場が今の東京のザマだ。

ロンハーマンとポップコーンで笑顔になっている女の子も健気で大好きだけど、商業複合施設が好きな男とは友達にはなれない。

「お前らセンスないし頭も悪いから、とりあえず雰囲気の良さそうなモン集めたから適当に金落としておけよ。あと連れてきた女にも何か買えよ。ついでにお前らが好きそうな料金の8割が雰囲気代のそこそこマズい料理も用意したから食ってけよ」と言われているような気になる。

そんなことを思いながら、ゴリゴリの商業複合施設であるお台場のダイバーシティー内にあるラウンドワンで仁王立ちになりながらいつもUFOキャッチーに興じている。

今、人から一番言われたくない言葉が「買ったほうが安い」だ。

僕は繊細だから優しくしてほしい。

 

 

家を買おうかと考えている友人に相談された。

家の話は対外的な繊細な気持ちの問題が絡み合うから是非で話すべきことじゃないし、僕の考え方は「同じ家に住み続けるなんて刑務所と一緒」というマイノリティーの考えだと自覚しているからなるべく家の話はしないようにしていたけど、相談されたのでこの記事のリンクを送った。

会社の先輩に勧められたからとか、親から言われたからとか色々な理由があると思うけど、損得勘定に無意味な感情は入れるなよって話をした。

5分もあればググって未来の予測データや価値や移り変わりをグラフで見られるのに、それを見ずして何千万もぶっこむなんて超チャレンジャーだ。

戸建ての空き家がいよいよ1000万戸を超えるそうだ。

マンションの空室も含めたらどれくらいの数字になるんだろうか。

その気になれば日本全国、特定の土地に思い入れがなければタダみたいな金額で生きることができるのだ。

家の話はその人の人生そのものみたいなモノがあるっぽいので、やはり親しい人間の間柄でも避けた方が良い話題だ。

家と宗教と奥さんと子育ての話は避けたほうがいいだろう。

あなたが笑えていたらそれが正解だって僕は思うよって、結局はそういう風に締めるだけだ。

実際そう思うし。

 

 

友達からの話を聞くと、世の中のクレームは本当にヒドイようだ。

いつの間にこんな暗黒パワーが席巻するようになってしまったのか。

訳わかんない身勝手で気狂いのようなクレームに辟易していると語る友達の顔は笑ってはいなかった。

心から同情する。

世界に暗い話が多いのは、楽しいやハッピーの類の話は疎まれ憎まれ、クレームの恰好の標的になるからだろう。

例えば「子どもが小学校の運動会の徒競走で一等になった」なんて書いたら、

①子どもができない人に対する配慮が足りない
②結婚できない人に対する配慮が足りない
③体調不良などで運動会に出られなかった人に対する配慮が足りない
④車イスの子に対する配慮が足りない
⑤小学校に上がる前に亡くなってしまった親に対する配慮が足りない
⑥震災で運動会が延期になった子ども達に対する配慮が足りない
⑦一等以外の子どもに対する配慮が足りない
⑧勝ち負けを自慢する行為はイジメの発端

と頭がおかしいクレーマーが言いそうな文句が簡単に8個出てくる。

幸せなことや嬉しいことを書くことの自主規制ははじまった。

愛されたければ卑屈でいろ。

まるで世にも奇妙な物語。

SNSをやっている人ならよく知っていることだろう。

不幸や愚痴を語っていれば傷つくことはないけれど、愛されもしない。

愛されない人間は被害者意識ばかりがデカくなり、人と自分を比べ、弱き者を叩き、もっと愛されなくなるという地獄のループから抜け出せなくなる。

飲食店で店員さんに偉そうな態度取っている人や、デトロイトテクノみたいなBPMの貧乏ゆすりをしている人などがおそらくこれだ。

仕事で馬鹿を相手にすることは仕方がないことで、お金の為ならと忘れることもできるだろう。

だけどせめて自分はそっち側の人間にならないように細心の注意を払わなければと思う。

自分が傷つかないかネズミみたいにキョロキョロしてるよりも、「どうってことないっすよ」と痛めてても胸張っていた方がカッコいい。

死んだおばあちゃんに「大ちゃん、カッコよくいなさい」と言われたことを思い出した。

迷ったらカッコいいのはどちらかと考えたらいいのかもしれない。

 

 

自虐や卑屈は癖になる。

世間がそうであるなら、せめて友達からはありのままの感情や出来事を聞きたい。

どんなこと言ったって嫌いになんてなるものか。

世間では仕事や景気の調子良くなると友達増えるらしいけど、僕にとっては友達の調子がどうかなんて実際どうでもいい。

調子が悪ければ相談に乗るし、調子が良ければ一緒に浮かれる。

打ちのめされていなければいい。

女々しいセンチメントから奮い立つ情熱まで、会って話そうじゃないか。

そろそろメキシコのカンクンで派手に遊ぶ計画を真剣に立てようじゃないか。

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ハヤブサマガジン 2005年10月活動開始。 フリーマガジン「ハヤブサマガジン」を日本全国のフットサルコート、スポーツバーなどに配布。 vol.7をもって活動停止。2013年、ウェブマガジンとして活動再開。ブログは日常の話です。