みんなにとっては当然知っている話でも、自分にとっては驚くことだったということはよくあることだ。
先日、キャプテン翼の主題歌『燃えてヒーロー』の出だし「ちょっとあれ見な エースが通る」というフレーズを「ちょっと荒れ身な エースが通る」だとずっと間違えていたことに先日気が付いた。
幸いにも小学校の頃に友達がいなかったので、「なんだよ荒れ身って、こいつ超デブでハゲじゃん」とイジられることもなく、ずっと間違えたまま36歳になってしまった。
ちょっと荒れ身、つまり首がダルダルのスポルディングのTシャツにシミだらけのカーキ色のズボンにつま先に穴が開いているズック。
お母さんがちょっとタバコ買ってくると家を出たまま帰ってこないで、5年近く父と2人でボロアパートで暮らしている翼。
「金がないから博打やっちまうんだ。金があったら博打なんかやるかよ。・・・やるかよ」と畳をむしりながら何十回もつぶやく父の背中を見つめる翼。
冗談抜きにキャピテン翼って貧乏な少年がサッカーで富と名声と仲間を獲得してゆく話だと思っていた。
僕はスポーツ漫画をほとんど読んでいないので、みんなと価値観が若干食い違う時がたまにある。
調べてみたらキャプテン翼の主題歌の歌詞にある「あいつの噂でチャンバも走る」のチャンバっておばあちゃんを逆さ読みにしただけなんだって。(これ本当の話)
チャンバってブラジル的な何かだと思っていた。
ホーンとか持った派手な装いの応援団みたいなのを連想させる。
連想と言えば、「かまをかける」という言葉を聞くとどうしてもこの言葉の語源が「オカマに精子をぶっかける」だと頭によぎってしまう。
大学を出ているので当然間違っているのはわかっている。
そんなタランティーノなノリなわけがないんだけど、どうしてもそんな様子がイメージとして脳裏にチラつく。
僕の根源的な部分になにかあるのかもしれないと自問自答しても、そんなわけないから3秒で考えるのやめた。
男は白黒はっきり付いていないゲームや競技に対して、「おそらく俺が一番うまい」と自惚れがちだ。
代表的な例としてフリスビーがある。
3年に1回くらいしかやらないし、みんなそこそこは上手く投げられキャッチできるせいで「おそらく俺が一番うまい」と勝手に判断してしまう。
そこで、高さ1メートルくらいの位置にペットボトルなどの標的を置いて、より遠くからフリスビーを投げて標的を落とした人が優勝というゲームを考えた。
きっとすでに500万人くらいやっていると思うけど、僕はまだやったことないからやってみたい。
おそらく僕が一番うまいだろう。
古くからのダチんコのグレート土屋が大学を卒業してから十何年も住んでいた代田橋から引っ越した。
なんだかその出来事のせいか僕も妙にセンティな気持ちになってしまった。
青春がテーマの映画なら今まさにエンドロールとエンディングの曲が流れていることだろう。
エンディングの曲はアルペジオやビートよりもややノイズがかったギターインストがグッとくる。
4つ打ちよりも16ビートってやつだ。
けれど寂しくなんかない。
胸の中でトレンディでロマンチックな予感がしている。
暴れ回る3歳前の女子と高速ハイハイで自ら壁に突っ込んで泣きまくる幼児がやっと眠った22時過ぎ。
ベランダに出て沖に向かう貨物船を眺めながら、僕のハートには未だにそんな予感が居座っていることに気付く。
そしていくつかのビルを超えた向こうに土屋の新居を眺めながら、土屋は今頃一杯やっているのかななんて考えてみる。
大学に行かなくなった19歳の僕はきっとモヤモヤと36歳になった今の僕のことについても考えていたことだろう。
幸せや夢の姿形は19歳に追い求めていた時からだいぶ様が変わった。
そして残念ながら今もモヤモヤしているし、今も大笑いしてはイラついて情緒不安定でいる。
どこにでも行けるし、ある程度の好きなモノゴトを手に入れることができたのに、今でも焦燥感に苛まれている。
焦で燥な感情は今日も空回りする。
そして、ビルの向こうにド派手に出現する群青とオレンジのダイナミックな夕暮れに今でも胸がいっぱいになる。
朝焼けに希望を感じるし雪が降れば超ウキウキする。
友達と歩く23時の表参道は今も痛快ウキウキ通りだ。
あいかわらず魚は釣れないし、あいかわらずのメンバーと遊んで酒を呑んでは次の街まで歩いている。
そしてあいかわず東京の街で生きている。
手はほどけてしまっても、確証のない何かで僕らは繋がっている。
それを大げさに愛だと言っても許される年齢になった。
僕を指さして笑うセンスのない同級生はもういないのだから。
仕事以外ではロマンチックでドラマチックなことしか言いたくないし考えたくない。
誰かを叩いたり諦めた皮肉や思考停止の一般論はそれに相反する最果てにある。
ありきたりな話だけど、大人は思っていたよりも大人でもなく、それでいて思ってたよりも脆弱ではなかった。
退屈そうな装いの内側は案外タフでいて繊細だということ知った。
その機微を表現しなくなっただけの話だ。
神戸とかそこらへんに住んでいる友達のシンゴが去年作ったミックスCDを、家で仕事をしている時にいつも聴いている。
とても素敵な選曲なんだ。
友達が作ったものはなんでも好きだ。
マサキとたっくんが作った帽子は今でも被っている。
そこに批評や分析なんて必要ない。
技術論はプロが金稼ぐ為に語ればいい。
そんなことは僕らも仕事でやってるんだから、友達の作品物はただひらすら感じればいい。
作品物とまでは言わなくても、SNSでもなんでもいい。
僕は友達の表現に触れていたい。
面白可笑しくれば最高だけど、哀しみや切なさもイケてるスパイスだ。
あんまり大きい声で言うのはアレだけど、僕はいつもはっきり思うことがある。
「俺達の方がヤバい」
センスのない世間VS俺達という図式の誰も傷つかない戦争が人知れず17歳から僕の頭の中で続いている。
その戦争も休戦したり激化したりを繰り返し、いつの日か世間の都合も少し理解するようになっていた。
ドラゴンボールはよく知らないけど、たぶんベジータ対カカロットみたいな感じだ。
さすがに「カカロット」と口にするのにはいささか恥ずかしい年齢になった。
いささか先生だ。
昔、一回り年上の先輩が酒を飲みながら僕に言った言葉の意味がやっとわかった。
「年取っても退屈に慣れるなよ」
退屈から逃げ続けているような人生なので、僕自身は慣れることはないけれど、「この人、退屈に慣れちゃったな」と気が付いてしまうことは多くなった。
実際、慣れた方が楽なんだろう、きっと。
「年取っても退屈に慣れるなよ」は「いつまでも面白おかしく生きろよ」って意味だと思っていたけど、全然違った。
本当の意味は「楽しく生きたければ常に考え、集中し努力し続けろ」ってことだった。
惰性の中に笑いはないと同義だ。
ビルのふもと、デカい声の関西弁と猿の叫び声のような笑い声を振りほどきながら走る。
虚ろな表情で2chのまとめを歩きながら眺める青年達の間を「ちょっとごめんね」とすり抜けながら走る。
そして凄い早さでダサくなる街を見て思わず立ち止まる。
これはシティーボーイの受難だ。
けれど悲しむことはないし、馬鹿にしたり傷つけたり叩いたりする必要もない。
またもや僕らのカッコよさが一層際立つだけだ。
カレンダーを1枚めくる度にほっとする。
時間のスピードに焦るわけでも、何かを達成できなかったことを悔いるわけでもなく、ただただほっとする。
昔に起きた嫌な出来事も、運悪く出会ってしまった嫌な奴との出来事も、辛かったいくつかの出来事もどんどん遠くに離れていくのだなと、カレンダーを1枚めくる度に実感する。
停滞しているのか、どこまで来たのか、実感がないまま毎日が終わるの中で、月に1度、何もかもがどんどん遠くなっていることを知る。
闇夜を突き走る銀河鉄道のように、まだ見えぬ場所に向かってどんどんと、どんどんと僕らは進んで行く。
もっと早くどんどん遠くに行ってしまえばいいと思う。
欲を言えば、あなたもも同じ列車に乗っていてくれたら、きっと楽しいことだろう。
暗闇の中でも一緒に高らかに笑ってやろうじゃないか。
冗談と笑える嘘とともに、僕らを乗せた列車が大きな汽笛を鳴らしてくれたら、それは最高だ。